リトル広島の旅 3 神保賞子編

生まれて初めての広島。初めて見た広島のまちは都会でした!道が広くて高層ビルが並んでいて、ごみごみした感じやよどんだ感じがなくて綺麗です。何より平和公園は広々していて緑も多く心地の良い場所でした。
原爆資料館の中心からみると、原爆ドームがご神体となるように公園が構成されていて、祈りが中心となった街づくりになっています。多くの人々が広島に想いを寄せ、たくさんの祈りが集まっているのを感じました。
子どものころ大人から聞いた話で、広島の原爆ドームの辺りにはおどろおどろしいイメージがまとわりついていて、なかなか足が向かなかったのですが、今回の旅でそれは間違った思い込みだったと気づくことが出来ました。

世界で初めて原爆を落とされ、核兵器を開発実験したい人たちの欲によって犠牲とさせられてしまった広島。
広島で「リトルボーイ」という原子爆弾が落とされて、熱線や爆風によって多くの人が亡くなり、または怪我をしたり、家族を失ったりしてたくさんの苦しみ悲しみが生まれました。さらに放射線によって多くの人が被曝して、自身の病気はもとより、我が子や孫への影響におびえながら暮らさなければならなくなり、生きている間ずっと苦しみを背負って行かないといけなくなったこと。また、家族が欠けることで、残された家族も崩壊してしまうという苦しみがあった事実も知りました。

今回、細見葉菜さんのつながりで岡田恵美子さんというひとりの女性の証言を聞かせていただきました。岡田さんの人生を知ることで、他人ごとではない現実味を感じることが出来たように思います。

細見葉菜さんが被爆者の語り部になろうとしていると知ったのは一昨年です。a littleの集まりで話を聞きました。北海道から広島へ行き、第1期生として学ばれたそうです。同年代の女性が熱い思いを胸に子育てしながら伝承者になろうとしていることに、ただただすごいなと感じて、私も何かできることがあったら手伝いたいと思いました。

その後ご近所のお年寄り(94歳)から戦争の体験をお聞きする機会があり、よりその思いが強くなりました。少しその方からお聞きした話を紹介します。

「特攻部隊の最年少だったそうで、部隊の仲間はみんな死んでしまったのに一人だけ生き残ってしまったとおっしゃっていました。海に落ちてなんとか泳いで日本までたどり着いたが、家に帰ると母親からどうして生きて帰ってきたんだと責められたたそうです。」
体験した方にしかわからないだろう、苦しみ、悲しみ、恐怖、虚しさといった負の感情をずっと密かに抱えて生きていらっしゃる人がいるという現実を知りました。そのような思いは、どうしたって無くなることはないのかもしれないけれど、話して聞いてもらうことで癒される面はきっとあるはずだと思います。ご自身のためにも、苦しむ人を増やさないためにも戦争体験は伝え継いでいただきたいと思いました。

1月27日におしゃべり会で、葉菜さんや西宮市原爆被害者の会会長の武居勝敏さんにお越しいただいて、お話ししていただくことになりました。今回の広島への旅を踏まえて、参加していただいた方に身近なことと感じていただいて、私も何かしたいと思ってもらえる会になったらいいなと思っています。

先にも書きましたが、私自身広島には怖いイメージがあって訪れるのを避けていたように思います。子どものときに原爆投下後の凄惨な状況だけピックアップされて、恐怖としてインプットされてしまったのではないでしょうか。戦争をしないために、平和な世の中を築き上げていくのに大切なことは怖がらせることではないと思います。事実を伝え、自分には何ができるか考え続けられるように導いていくことが大切だと思いました。a littleの仲間と一緒に何ができるか考え続けて、行動していこうと思います。
(神保賞子)